シリーズ 『中東和平は可能か?』 6.ソフトパワーの重要性

2019.04.12 Friday

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    ♦最も越えがたい感情の壁

     

    失敗した事例と成功した事例の両方を比べて学んで、これからのアプローチを考えていきたいと思います。

     

    明確に言えることは、「今はソフトパワーを発揮する時である」ということです。

     

    ソフトパワーが必要だからといって政治的な力が必要ないというのではありません。

     

    国境問題、難民問題、エルサレムの帰属の問題という政治的な問題、これは今後も継続して論議していかなければなりません。

     

    しかしみなさん驚かないでください。

     

    こういった問題は既に言葉の上では解決済みです。

     

    国境線をどうするだの難民をどうするだの、エルサレムの帰属をどうするなど、これらは実はすべて、既に合意済みの事項なのです。

     

    一番の問題は、国民自体が本当に和解しよう、そして共に生きてゆこうという決断がだけが残っているのです。

     

    問題の核心は、理論とか合理性とかそう言った事ではなく我々の心の中核にある感情問題です。その感情問題がこじれて問題になっているのです。

     

    お互いが共に生きてゆこうという強い感情にどのようにしてたどり着く事ができるかが問題の核心です。

     

    ♦文化交流から始まる相互理解

     

    勿論この心の領域には宗教が深くかかわっていますから、両者の宗教の指導者や宗教人たちがお互いの理解を高めるという事、文化の交流を通して人と人とが本当に深く交わるという事が大切です。これらのことを私達は力を入れて行なってきました。

     

     

    この写真、これはイスラエルの伝統的な笛をアラブの子供たちが吹いている場面です。

     

    他にもこのような民間レベルでイスラエルとアラブの交流を試みてきた私たちの活動の何百という写真があります。

     

     

     

    これはパレスチナのラマラでの地元の有力者達との会合です。

     

    継続的に交流を続けていこうという事で現在でも頻繁に話し合いが持たれています。

     

    このパレスチナ側の文化省の局長だった女性は継続的にイスラエルとの文化交流を持っています。

     

     

     

    これは、今年6月に行いました平和議員連盟の写真です

     

    イタリア・サンマリノ、ウクライナ、トルコなど各国の国会議員が集まりましてイスラエル・パレスチナの平和議員連盟の立ち上げをプロモートした時の写真です。

     

    イスラエルとパレスチナの国会議員達の交流をメインとしながら関係国の国会議員との交流の場を広めてゆくためです。

     

     

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    シリーズ 『中東和平は可能か?』 5.過去の平和プラン 成功した例

    2019.04.11 Thursday

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      ♦平和プランの成功例

       

      今度は少しうまくいった例をあげてみたいと思います。

       

      1979年、エジプトとイスラエルとの間に平和条約が締結されました。

       

       

       

      まあ正直に言いますが、これはイスラエルとパレスチナ側の平和ではなくて、エジプトとイスラエルという2国間の協定です。

       

      成功例ではありますが、直接パレスチナ,イスラエル問題ではありません。

       

      しかしながら二国間に平和を結ぶことができるということは、アラブとイスラエルの人々の間の平和が可能であるという希望を与えてくれます。

       

      そしてこれは、イスラエルとパレスチナ関係をもう少し話し合いの軌道に乗せてみようという試みを与えてくれました。

       

      この試みはスペインにおいて、各国首脳,もちろんイスラエルからも、アメリカからそれからソ連からもゴルバチョフという、錚々たる世界の首脳陣が集まった中での協議でありました。

       

      この時に設定された2国間協議とか多国間の協定、などの話し合いの試みというものは未だに続いております。

       

      このスペインの会議、マドリードの会議が大きなきっかけとなってオスロでさらに実質的な平和へのプロセスがはじまります。

       

      1993年のオスロ会議では、イスラエルは初めて国家としての権利をPLO(パレスチナ解放機構)から認められ、イスラエルはPLOをパレスチナの正当な代表として正式に認めました。

       

      PLOとの間に正式にそのような合意がなされました。

       

      この時私たちは本当に大きな希望を抱きました。これで私たち二つの国が和解に向けて進むことができるのだ、お互いに相手を認め合うことができるのだ、という希望が見えた瞬間でもありました。

       

      ♦成功例だがとりのこされたパレスチナ

       

      1994年には、イスラエルとヨルダンとの平和条約が結ばれました。

       

      イスラエル首相とヨルダンの国王、それから真ん中にはクリントンさんがいます。みなさんどう思いますか。

       

       

       

      これはパレスチナにとって喜ばしいことでしょうか?あるいはそうでないでしょうか?

      皆さんにはちょっと答えにくい質問かもしれません。

       

      パレスチナ人にとっては、パレスチナ人がここに入っていないのでのけ者にされた気分になるのです。

       

      エジプトとの平和条約でもそうでした。ヨルダンともそうでありますが、

      つまりエジプトとヨルダンはパレスチナの問題から手を引いたという現実であります。

       

      それでパレスチナ人は、自分たちはこのヨルダンからも、エジプトからも積極的な支援を受けられずに取り残されたという気分になるのです。

       

      パレスチナ人にとってはどう感じるかといえば、

       

      エジプトはガザなんか欲しくない。ガザはどうぞあなたたちで解決してください。

       

      ヨルダン国王も、ヨルダン川西岸を私たちは要りません。どうぞお好きに。

       

      というふうにエジプトというパトロンとヨルダンというパトロンを失うこととなる、頼りになる国がなくなったのです。

       

       

       

      しかし逆にパレスチナ人にとっては、「やはり我々は、我々にとってのアイデンティティを確保するための自分たちの国が必要だ」という意識がかえって強まるきっかけにもなりました。

       

       

      ♦成功例からの教訓

       

      先ず第一には、リーダーの資質が重要です。

       

      エジプトとイスラエルのリーダーは必ずやり遂げるという信念を持っていたということです。この強いリーダーは、本当に達成できるのだという強い気持ちを人々に与えてくれました。

       

      二点目は相手方を尊重し相手方の権利を認め、相手の言い分も聞きながら話を進めるということであります。

       

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      シリーズ 『中東和平は可能か?』 4.過去の平和プラン 成功しなかった例

      2019.04.09 Tuesday

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        ♦過去の平和プラン  成功しなかった例

         

         

        過去の平和プランの中で幾つかの成功しなかった、実行されなかったプランについて検討したいと思います。

         

        1. 1949年のLausanne Conference:1948年の戦争の停戦の後に国連調停委員会はローザンヌプランというものを発表しました。国連決議194に関係する領土とパレスチナ難民問題を解決しようとする案でありましたが決まりませんでした.

         

         

        2. 2002年、アラブ連盟の支持を受けたサウジアラビアの提案で、2007年にも提案がなされましたが、このプランは非常に興味のあるユニークなものでありました。

         

        パレスチナとユダヤの問題を、イスラエル全体の問題としてこの地域にまたがって包括的に解決しようという試みがありました。

         

        しかしこのプランはイスラエルから見れば、あまりにも失うものがあるし、パレスチナ側はそれでも十分ではない、とお互いに不満があり、スタートしませんでした。

         

         

        3.  2003年に、ジョージ・ブッシュによる和平へのロードマップというものが示されましたが、これもうまくいきませんでした。

         

        シャロンさんとブッシュさんですね。非常に有名な写真ですが、ジュネーブでも、難民の問題,国境の問題,あらゆる問題を包括的に解決しようということで本当に詳細なプランが練られましたけれども実行ができませんでした。

         

         

         

         

        その失敗する理由、その根本的な理由は一体何でしょう?色々な理由が考えられると思いますが、私は3点挙げたいと思います。

         

        第一は、お互いに相手を信頼できない。信用できないということ。

         

        第二は希望がない、充分な希望がないということ。何かが本当に変わるのだという希望が欠如しております。

         

        第三には,相手側にも正当な生存理由があるのだ、という相手側を認める姿勢が欠けております。

         

        国民一人一人の中に、「これで行きたい」というそういった思いや態度、これが無い中で、いくら指導者が合意しても、何かにサインしてもそれは結局は失敗する運命にあります。

         

        ♦失敗から何を学ぶべきか

         

        和平合意に調印後握手をするラビンとアラファト(中央はビル・クリントン)

        この後二人は揃ってノーベル平和賞を受賞する。

         

        ある悲しむべき事件が皮肉にもこの問題に対して私たちに一つの方向性を示してくれました。

         

        それはラビン首相の暗殺事件です。

         

        ラビン首相は自身の持つ非常に強い平和への思いで平和プロセスを進めて行ったのでありますが、彼は暗殺されました。

         

        彼は暗殺されましたが 多くの人が、「これは彼個人が暗殺されたのではなく、平和そのものが暗殺されたのだ」と言っております。

         

        イスラエルの市民として私も非常に大きなショックを受けました。現代のような時代に我々の首相が、こういった形で暗殺されるとは思ってもみなかったのです。 

         

        最近はパレスチナ側に住む人と会って話ますと「ラビンが暗殺されたのが残念でならない、ラビンがいたら我々はもっと平和へのプロセスを進めることができたのに」と、このように言っております。

          

        つまりイスラエル・パレスチナ両者がラビン首相のような心を持たなければならないということです。

         

         

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        シリーズ 『中東和平は可能か?』 3.二つのシナリオを生む素地

        2019.04.08 Monday

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          ♦1949年の休戦協定後の分割線

           

          1948年の5月14日のイスラエル独立宣言の翌日に、パレスチナ人は、「それは承認できない」、として反旗をひるがえし紛争が拡大します。

           

          エジプト、シリア、ヨルダン、レバロンという外国軍がパレスチナ支援に向かいました。

           

          この紛争あるいは戦争は1949年の休戦協定で一応終結します。

           

          左側がいわゆる分割決議案に基づく案ですが右側は1949年の休戦平和協定によって引かれた線です。紫色の部分はイスラエルが国連決議案より休戦協定で新たに領土として獲得することとなりました。

           

          つまり紫色のところが拡大された。この状況が二つのシナリオを生む素地となりました。

           

           

          イスラエルの立場からは1948年5月14日はイスラエルが独立した日。イギリスの支配を打ち破って、あるいは退けて独立を達成した喜びの日であります。

           

          それに対し1948年5月15日はパレスチナ人にとってはまさしく悪夢の日で、その日を期して、パレスチナは敗北をし、土地を失い、そしてその後の難民問題が発生しました。

           

           

          したがって、この国連決議案とそれに続くイスラエルの独立、この物語についてイスラエル人から話を聞くのと、パレスチナ人から話を聞くのとでは、まるで違う二つの物語となります。

           

          さらに不幸なことに、これが最終的な紛争ではありませんでした。日本におられる皆さんにとっての最終戦争は第二次世界大戦でしょう。

           

          朝鮮戦争もありましたけれど、直接巻き込まれた戦争ではなかったですね。

           

          私たちの地域においては12の戦争が起こりました。

           

          皆さんもご存知の6日戦争とか、1973年の戦争とかこの70年を振り返ってみますと、ほぼ5年に1度くらい大きな戦争が戦われております。

           

          これを想起することがなぜ重要かと言いますと、

          戦争というものがもし私たちの親とかおじいちゃんおばあちゃんとかそういう時代に戦われた何十年も前のことなら、今の若い人たちはその戦争のことをあまり知りませんから、「これから未来志向で,どうしたら和解できるか?どのように共存していけるか」という話が可能だと思います。

           

          しかし5年ごとに戦争が行われているという状況では、戦争への考え方から平和への考え方に切り替えるということは非常に難しいのです。

           

          ♦戦争のない平和な時代を希望

           

          私は海軍に勤務していた時代、不幸なことにこの戦争に参加せざるをえませんでした。

           

          しかしながら私は「自分は戦っているけれど自分の子供たちは、こんな戦争をしなくて済むのだ。平和な時代に生きるのだ」と確信しておりました。

           

          私には4人の子供がおりますが、4人全員陸軍に入って(イスラエルでは男女共に3年間の兵役義務がある)、やはり戦争と離れられない生活をしております。ですから私の希望は「子供の時代はダメでも、孫の時代は平和になるのだ」と。これが私の希望です。

           

          国際的な機関として代表的なものに国連がありますが、彼らの意思は国連決議案として発表されます。

           

          国連のこういう問題に関心のある方は、多分国連決議案194号とか242号とか、まあそういう国連決議案の番号で言われます。

           

          それは平和への道筋をつけようという意図で出されます。

           

          しかし国連というものの性格を皆さんご存知と思いますが、それに関わる異なる意図、異なるプレイヤーが常に存在していますから、国連決議案が必ずしも平和への道筋を引いてくれたとは言えませんでした。

           

           

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          シリーズ 『中東和平は可能か?』 部族社会であった中東の歴史

          2019.04.05 Friday

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            The Jerusalem Peace and Security Forum代表 

            Hod Ben Zvi氏 講演内容から

             

            ♦国民・国家概念が存在しなかった近代の中東

             

            紛争の原因と言えば非常に多くの複合的な要素があります。歴史的な要素、宗教的な要素、地政学的な要素、様々な要因があります。すべてをここで取り上げることはとてもできませんから、焦点を絞って考えてみたいと思います。

             

            現時点ではイスラエル側もパレスチナ側も相手側の主張を全面的に受け入れるつまり独立国家として受け入れるという風にはなっていない、ということが非常に重要です。

             

            部分的には容認している点がありますが,全面的にはそうはなっておりません。

             

             

            上の地図はいろいろな色で書かれております。

            このことは私たちにある悲しみを思い起こさせます。

            中東の歴史ですが、みどりの部分はオスマン帝国の支配下、むらさきの部分はイギリス帝国の支配下に分けられております。

             

            現在の政治を考える上では国民・国家というコンセプトが鍵になっておりますが、その国民・国家というものは、中東においては存在していませんでした。

             

            他の地域では100200年それ以上の時間をかけての国民・国家の歴史がありますが,中東においてはつい最近まで存在していませんでした。帝国主義に支配されるまでは部族社会で構成された地域でありました。

             

            西洋の列強いわゆる帝国主義というものが分割統治をした時の国境線の引き方というものは理にかなわない人工的な線の引き方でした。

             

            例えばシリアの紛争の本当の原因というものは、このシリアというものの線が引かれた中に多くの部族というものが存在しておりまして、彼らにとっては一つの国境を作る民族国家というものではないにもかかわらず一つの国として国境線が引かれました。

             

            このようなことを理解して頂くことはイスラエル・パレスチナ問題を考える際にも非常に重要です。かつては、このアラブ人,パレスチナ人,ユダヤ人もオスマン帝国とか,イギリス帝国に対し、共通の目的、共通の敵とし抵抗しました。

             

            そのときには,パレスチナ人とユダヤ人の間に深刻な対立というものはなかったのです。

             

            ♦パレスチナ「国連分割案」

             

             

            1947年にパレスチナの「国連分割決議案」(181号決議)が出てきました。

            少し小さい地図ですが、このピンクの部分が、イスラエルの領地だと示された場所です。黄色の部分がパレスチナの領土です。

             

            これを見て少し不自然に思いませんか。黄色とオレンジと何でこんな風にジグザグでバラバラなのだろうと。もっとスッキリできないのか。

             

            普通国境というものはもう少しスッキリした形になっていると思うのですが、これを見ますとお互いに入り組んでいて複雑な形になっています。これを見てもわかるように、分割案というものがここからここまでという風にスッキリ二つの形に、北と南とか東と西とか、そういう風にはなっていません。つまり複雑な問題を抱えていたということが理解できると思います。

             

            もちろん国連決議案の意図は、ユダヤ人にもパレスチナ人にもお互い安心して住めるところという善意から出たものだと思います。しかし現実的にはこの決議案の後に紛争が起きます。この紛争は1947年から49年までの間に展開されます。この紛争の真っただ中、1948年の514日にイスラエルは独立を宣言します。

             

            この独立宣言の翌日に、パレスチナ人は、「それは承認できない」、として反旗をひるがえし紛争が拡大します。エジプトから、シリアから、ヨルダンから、レバロンから、という外国軍がパレスチナ支援に向かいます。

             

             

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