シリーズ 『中東和平は可能か?』 部族社会であった中東の歴史

2019.04.05 Friday

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    The Jerusalem Peace and Security Forum代表 

    Hod Ben Zvi氏 講演内容から

     

    ♦国民・国家概念が存在しなかった近代の中東

     

    紛争の原因と言えば非常に多くの複合的な要素があります。歴史的な要素、宗教的な要素、地政学的な要素、様々な要因があります。すべてをここで取り上げることはとてもできませんから、焦点を絞って考えてみたいと思います。

     

    現時点ではイスラエル側もパレスチナ側も相手側の主張を全面的に受け入れるつまり独立国家として受け入れるという風にはなっていない、ということが非常に重要です。

     

    部分的には容認している点がありますが,全面的にはそうはなっておりません。

     

     

    上の地図はいろいろな色で書かれております。

    このことは私たちにある悲しみを思い起こさせます。

    中東の歴史ですが、みどりの部分はオスマン帝国の支配下、むらさきの部分はイギリス帝国の支配下に分けられております。

     

    現在の政治を考える上では国民・国家というコンセプトが鍵になっておりますが、その国民・国家というものは、中東においては存在していませんでした。

     

    他の地域では100200年それ以上の時間をかけての国民・国家の歴史がありますが,中東においてはつい最近まで存在していませんでした。帝国主義に支配されるまでは部族社会で構成された地域でありました。

     

    西洋の列強いわゆる帝国主義というものが分割統治をした時の国境線の引き方というものは理にかなわない人工的な線の引き方でした。

     

    例えばシリアの紛争の本当の原因というものは、このシリアというものの線が引かれた中に多くの部族というものが存在しておりまして、彼らにとっては一つの国境を作る民族国家というものではないにもかかわらず一つの国として国境線が引かれました。

     

    このようなことを理解して頂くことはイスラエル・パレスチナ問題を考える際にも非常に重要です。かつては、このアラブ人,パレスチナ人,ユダヤ人もオスマン帝国とか,イギリス帝国に対し、共通の目的、共通の敵とし抵抗しました。

     

    そのときには,パレスチナ人とユダヤ人の間に深刻な対立というものはなかったのです。

     

    ♦パレスチナ「国連分割案」

     

     

    1947年にパレスチナの「国連分割決議案」(181号決議)が出てきました。

    少し小さい地図ですが、このピンクの部分が、イスラエルの領地だと示された場所です。黄色の部分がパレスチナの領土です。

     

    これを見て少し不自然に思いませんか。黄色とオレンジと何でこんな風にジグザグでバラバラなのだろうと。もっとスッキリできないのか。

     

    普通国境というものはもう少しスッキリした形になっていると思うのですが、これを見ますとお互いに入り組んでいて複雑な形になっています。これを見てもわかるように、分割案というものがここからここまでという風にスッキリ二つの形に、北と南とか東と西とか、そういう風にはなっていません。つまり複雑な問題を抱えていたということが理解できると思います。

     

    もちろん国連決議案の意図は、ユダヤ人にもパレスチナ人にもお互い安心して住めるところという善意から出たものだと思います。しかし現実的にはこの決議案の後に紛争が起きます。この紛争は1947年から49年までの間に展開されます。この紛争の真っただ中、1948年の514日にイスラエルは独立を宣言します。

     

    この独立宣言の翌日に、パレスチナ人は、「それは承認できない」、として反旗をひるがえし紛争が拡大します。エジプトから、シリアから、ヨルダンから、レバロンから、という外国軍がパレスチナ支援に向かいます。

     

     

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